151.朝一番の深煎り珈琲の香りに誘われて、遠い記憶を思い出す。

やなか珈琲店

 歳を取ってくると、子供の頃の記憶がどんどん曖昧になってくる。でも、匂いは鮮明に当時が蘇って来る事が多い。僕の実家はススキノのど真ん中、小さな町の印刷屋だった。一階が事務所で二階が住まいだ。通りに面した事務所はオイルがたっぷりと塗られた土足用の床だった。昔の木造床の列車や学校の校舎などと同じ類いの強いオイルの匂いだ。
 我が家は父も母も大の珈琲党だったので、朝は必ず挽きたての珈琲を煎れていた。目が覚めて一階に下りて行くと、床のオイル臭に混じって珈琲の良い香りが漂っていたものだ。
 一階では母が和文の活版タイプライターを使って印刷原稿を打っていた。小さな活字が千文字以上も詰まった活字台をタイプライターにセットして一文字一文字探して打っていくのだ。其処に無い文字が出て来ると別の活字台を探して小さな活字を差し替える。このバケットと呼ばれる活字台が重いのなんの。よくあんなに重いバケットをひっきりなしに取り替えていたものだ。
 小学校の夏休みの時だったと思うが、店で遊んでいてバケットにぶつかった途端、ひっくり返って活字が全部床に転げ落ちて仕舞った。焦って、一つずつ拾ったが、もう元の位置なんかに戻せないのだ。あの時の床のオイルの匂いはずっと忘れない。
 今、毎朝家から歩いて事務所に出掛けるのだが、途中で必ずあの頃の匂いに出くわすのだ。目黒駅近くの「やなか珈琲店」の前を通るとオイルびきの床の匂いに混ざった様な深煎りの珈琲の香りが外まで漂っている。一杯180円の珈琲を買って、目を覚まそうとするのだが、遠い記憶の夢の世界に戻って仕舞いそうになるのだった。
やなか珈琲店 目黒店 目黒区上大崎2-17-4
0120-877-281