29.池波正太郎を偲び、蕎麦を喰らう。

辻がそば

 作家、池波正太郎の生まれた浅草の生家跡に程近い待乳山(まつちやま)聖天公園に「池波正太郎生誕の地」の記念石碑が立てられた。石碑には生前に書いたエッセイの中から「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとだ」と云う一節が刻まれている。生前の池波正太郎は銀座界隈を散歩するのが好きで、毎日のように映画の試写室で新作映画を観たり、歌舞伎や芝居を見物した後に美味いものを求めて「行きつけの店」に顔を出していたそうだ。もしも今、池波先生がお元気だったらば、是非ともお連れしたい蕎麦屋が新橋に在る。
 新橋駅から柳通りをまっすぐ愛宕方面へ歩き、塩釜神社の在る公園の先を右へ曲がると小さな露地にひっそりと佇む蕎麦屋が見える。暖簾をくぐると蕎麦打ち場とそば粉を挽く石臼が目に入る。目立たない処に店を構えながらも、ここ「辻そば」は凛とした風情を醸し出す蕎麦の名店だ。知的な趣きのご主人の辻さんは昔大手企業の創業者に仕えており、書の達筆さが巷でも評判だったそうだ。勤め人を辞め、蕎麦打ちの修行をした後にこの店を開いたが、この蕎麦がすこぶる美味い。 
 夏の時期ならば、刻み大根を蕎麦にからめた「辻がそば」が喉越しを潤す。今の時期ならば焼き味噌を舐め、日本酒が良い。酒も銘柄を揃えているので楽しめる。程よく酔ったら、〆にガツンと太打ちのぶっかけそばを喰うと良い。この蕎麦の名が「剣客そば」と云う。辻さんはきっと池波正太郎好きなのだろう。店の片隅で、そんな事を偲ばせる絵葉書を見つけた事が或る。
 北海道産の蕎麦を自家製粉し、つなぎなしの生粉打ち蕎麦にご主人の意気込みを感じるのだが、細打ちのざるそばが昼の時間は650円である。追加のざるは400円と実に良心的な設定だ。薬味に山葵は使わない。辛味大根と葱の薬味だ。こんなご主人の打つ蕎麦は、きっと池波正太郎が放っておく筈が無い。
辻そば 東京都港区新橋5-33-3
03-5401-1851