167.陽暮れ前に兵六で呑む。漸く此処が馴染む歳になったか。

兵六提灯

 社会に出てまだ間もない頃、先輩に連れられて八重洲の小さなビアホールを訪れた。八十年代の前半だっただろうか。当時、背伸びばかりしていた僕は流行りのバーやレストラン等ばかりに目を向けて老舗と呼ばれる店に足を踏み入れる事など無かった頃だ。それでも、あのきめ細かい泡の生ビールの味は今でも忘れない。
 数杯のビールを呑み干し、大手町から電車に乗り神保町へと向かった。僕よりひとまわり上の先輩が、「此処は俺でも最年少かもしれんナ」と暖簾を潜ったのが「兵六」だった。そんな処に若造が馴染む筈が無い。只々、緊張し一体何を呑み、何を語ったかまるで覚えていないのだ。
 あれから二十五年が経ち、友人と再び此処で呑んだ。当時の店主の姿は無く、今は三代目が店を守って居る。店の様子は当時と何一つ変わっていないのだが、あのピンと張りつめた空気などまるで感じられなかった。そうか、やっと僕が此処に追いついたのだナ。戦後から六十余年続く酒場は薩摩出身の先代の心意気がそのまま引き継がれている。酒は焼酎「薩摩無双」の燗が主力だ。そして、遠く上海の地で覚えた餃子と焼きそばが実に良く酒に合う。
 それでも若い輩には、此の独特な雰囲気に一瞬緊張するかもしれない。先代、平山一郎氏が作った「兵六憲法」が、今も店主と客との間に無言で保たれているからだ。ちょいと羽目を外したり、乱酔しようものなら、三代目店主、柴山真人さんの激が飛ぶ。だが、気持ち良く酔っぱらうのは大歓迎なのである。
 電話無し、冷暖房も無し。で、あるからに夏は大変暑い。開け放たれた窓や玄関から時折流れて来る風に癒されて、呑む酒は格別に美味い。そして、初代譲りの〈炒豆腐(ちゃーどうふ)一丁!〉の声で酒が呑みたくて、今宵も暖簾を潜るのである。
兵六 千代田区神田神保町1-3-20
電話無し